書籍を借りてきた。

相変わらず変なセキをしているのがいて、怖いのだが、一応別の島に移って作業を再開することにしました。
セキをしてるだけならまだしも、なんか行動も変だ。。。いや、セキをしていることのほうがもっと問題が大きいか。
結核でもうつされたらたまらん。
挙句にアルコール摂取疑惑。アルコールのにおいがしますが・・・という警備員の問いかけがあったが、その跡でものすごい勢いで鼻歌を歌いだすあたりがすでにもう処置なし。。。

私は自分がおかしいことを自覚しているので差別はしないが、怖いから逃げるぞ。
行動を読めない人種が一番怖い。



武漢兵站 (1978年)

武漢兵站 (1978年)

1978年に出版された書籍。
書庫に入っていたので、それを出してもらって、貸し出し許可をとった。
ざっと読んだところ、普通に手記であることには変わりはないのだが、実際の軍隊にいた人間の記録という点ではかなり興味深い部類に入る。
が、私の嫌いな慰安関係の内容も含まれているので(この時代の兵站は「その他諸々」という意味合いもあったため)、その点については読みたくないのだが、読みたくなくても情報として知っているのと知っていないのとでは異なってくるため、読まないといけないとは思う。




餓死(うえじに)した英霊たち

餓死(うえじに)した英霊たち

過去にロジスティクス関係のリファラがついていたので、その時に記しておいたのだが、その理由もこれによるものである。
行軍を行う時には兵士に十分な支援を行うことができるというその「必要性」はとても大きい。むしろ、食料や武器の調達に関しては孫子にも記載されている。
無茶な行軍は避け、敵の兵糧や武器を奪い利用する事は自軍にとって素晴らしい利益となるのは周知だろう。むしろ、昨今ではそれを避けるためにサボタージュが行われるのだが。(武器弾薬を相手に利用させないためにわざと破壊して放置して撤退する)
孫子を原則とするなら、旧日本軍のとった作戦行動は無謀でしかない。無謀な展開をしてまでも、したかったことがあるのだろうが、あまりにも命を軽んじすぎだったと思う。。。のは、私が平和なこの時代に生まれて教育を受けたからだろうが。
この本とは関係ないが、21時までには帰宅しようと思っている理由のひとつに、今晩放送される、NHKスペシャルがある。
某神社というものは何のために存在しているか、また、戦地へ彼らを送った肉親たちは一体何を思うのかなどという感情には、私はまったく興味はないが、あらゆる視点に立つよりも先に、なんらバイアスのかかっていない、純粋かつ多種多様な情報を得たいと、私は最近思う。
判断するのはそれからでも遅くないし、情報も知らずに扇動されるのは愚かな人間だけだ。
その情報自体が扇動目的という点も考えには上がるが、そういった場合すべてを疑ってかからなければならず、そうした場合信じるべきものは己の知識のみということになるが、その知識でさえも作られたものであったとしたら?という問いかけに対する答えの延長線上での次の次元での回答が存在しない以上、そう考えることはナンセンスである。
歴史は変動してはならないし、すべての情報を判断材料にして各個人があらゆる場合において判断を下すすべきなのだ。
常に中立的な情報が欲しい。
すべてにおいて、正しい判断をすることができる、などとは驕りであるし、各人の育った環境によって「正しい」という基準は変化するために、そうとは思わないのだが、ある一定の基準においていうならば、それらは可能であると私は思う。




トム・クランシー 熱砂の進軍〈上〉

トム・クランシー 熱砂の進軍〈上〉

これに関してはふと、目にとまったので。
まったく資料の整理・・・特に「文化と国防」の書籍は図書館から借りているため、早急に重要だと思われる(要するに、通常の書籍では線を引いたりラインマーカーでしるしをつけるべき)箇所をすべて書き出して、資料として整理しなければならないので、これまた読めないかもしれない。
うーむ。時間がいくらあっても足りないし、トラックが走らない、静かに勉強ができて、広い机のある場所かつ、資料が豊富ですぐさま関連した情報を得ることができる場所が家の近くにないものか・・・





人間が暇になったら

勉強をする、というのは本当のことで、ここ最近の読書量や内容、勉強して使用した消しゴムの量などは、高校3年間よりも多いわけで。(え?
いかにあの高校にいた時代に勉強していなかったか、がわかりますね。
ついでに言うと、大学の法学部時代よりも勉強している。(




まったく役に立たない内容かもしれないが、こういった分野は、比較的調べていて興味深い内容だと、思われる。
様々な事柄(特に科学はその点は顕著だが)戦争によって発展する、とは言い得て妙だ。。。
外交手段としては最悪だと思うがな。。。
人類が自我の形成と文化の維持と成長を望み続ける限り、なくならないのかもしれないが。