アジアのテクノロジーのレポート補足

アドレスをレポートにさらしておいたのですが、見てもらえるほど甘くは無いと思いました。
が、一応補足。
まぁここからは思ったことで、まったく根拠がないというか別に京極本を読んだからとかそういうのではないのですが、ツッコミ無用というか、そういうのでお願いします。
今日の日記の分類で下のほうに憑喪神に関してやると書いてあるので、そのままやります。
付喪神というのは、読んでそのままで物にとりついた結果それが怪をなすというものです。ポルターガイストが心霊現象であり、またその場合はなんらかの外的要因によっていきたあたりばったりのような騒霊であるのに対し、付喪神は人が使うことによって生をうけたと考えられるので、それとは別物として考える必要があると思う。
付喪神が文献に登場したのは確か平安時代ごろのものだったと思う。各自調べてください(超投げやり)
人は火と道具を使うことによってここまで発展してきた。
また、日本では昔から物を大切にするという習慣があり、特に日常生活で使用するような茶碗などは特に長持ちするものだと思う。
で、付喪神の発生だが私は妖怪などというものを一切信じておらず、無信心なのでこういうのはなんなのだが、一般的に考えてみると長い年月使い続けたものには何らかの影響力が慣習として働き続けると考えることができる。
ようは、「何もないのに、その気になる」という感じなのではないだろうか。
たとえば戦国時代に使い続けられた刃こぼれしまくった刀などは、「使われた→刀は人を切るために存在しているために人を切った」ということで、使っている人やその周辺の人からしてみたら、切られるというプロセスを何回も繰り返すことによって何か切られた人の意識のようなものが定着しているのではないか、という考えをもつ可能性までもでてくる。
もちろん、人間は死ねばそれまでなので、はっきり言ってそれは被害妄想というか妄想の域なわけだが。
また、「形見の品」という表現があるが、これに関しても同じことが言える。
親族や親しい人間が生き別れたり、または死に別れたりしたときにどちらか片方(死に別れの場合は生き残ったほう)が持つものがよく言われている形見の品だが、これには何らかの特別な感情がこめられていると、生きている側が思っていることが重大なポイントだと私は考える。
ようは、形見の品を受け取ったからといって、別にタキウス様(アニメ版ラグナ)の電波受信杖じゃないので、死んだ人間の念や遠くに離れてどこにいるかわからない、遭難しているような人間の思いがこもるはずがない。
とりあえずその「形見の品」というモノに対して念を込めているのは現在進行形でその形見の品を持っている人間なのだということ、これが一番盲点だと思う。
夢も感動もへったくれもない話ですが。
人が道具と一体化するということは実質的な仕事量に関してもそうだが、別の見方で捕らえるとすると、以上のようなことがいえるのではないだろうか。
つまり、なんらかの影響を受け続けた道具がその人の特性に合うように変化する、またはその使っている人間の側がその道具に特化するということ、これが人が道具と一体化するということの正体ではないかと考える。

え?メインの話題の付喪神?あー。どこにいったんだろう。
モノを大切にしましょう。(死刑